ブルックナー//メモランダムⅤ②ーフルトヴェングラー 再考

このブログでも、フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler, 18861954年)については何度も取り上げてきました。ブルックナーについて考えると、どうしてもフルトヴェングラーにいきつきます。それは、彼の前任がブルックナー指揮者として大変重要な地位をしめるニキシュ(Nikisch Artúr, Arthur Nikisch, 18551922年)だからです。

 ブルックナーとニキシュの関係は多くありますが、その最たるものは、1885年12月30日ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を指揮してブルックナー交響曲第7番の初演を行ったことでしょう。そして、ニキシュ以降、ドイツでブルックネリアーナ指揮者といえば、そこにフルトヴェングラーあり、ということになります。
 ニキシュはゲバントハウス管弦楽団の楽長を1895~1922年まで務めますが、その後任がフルトヴェングラーでした。同様に、ベルリン・フィルについては、ニキシュはハンス・フォン・ビューローの後任として常任指揮者となりますが、その地位もフルトヴェングラーが継ぎます。1922年は、フルトヴェングラーが名実ともにドイツ帝国第1の指揮者となった年でした。
 
  
 以下ではフルトヴェングラーのブルックナーの交響曲の演奏について、いくつか取り上げたいと思います。
  

ブルックナー:交響曲第4番《ロマンティック》改訂版

 
 1951年10月29日、ミュンヘンのドイツ博物館コングレスザールでの実況録音。地元のバイエルン放送がラジオ放送用に録音したものとのことである。当月のフルトヴェングラー/ウイーン・フィルは5日から22日まで、18日間で16回のコンサートをこなし、27日はフルトヴェングラーは単独でハンブルクに行き北ドイツ放送響を振り、翌28日はカールスルーエで再度ウイーン・フィルと合流しブラームス他を演奏している。そして29日にミュンヘンに入るという超人的な強行軍である。この録音もあくまでも放送用で、その後、長くLP、CDで聴きつがれることは演奏者は想像もしていなかっただろう。 フルトヴェングラーの足跡をたどるうえでは貴重な記録だが、会場の悪さ、オーケストラの疲労度からみてもベストの状況の録音とは思えない。会場の雑音の多さは一切無視するとしても、第1楽章冒頭のホルンのややふらついた出だしといい、折に触れての弦のアンサンブルの微妙な乱れといい、意外にもフルトヴェングラーの演奏にしては要所要所での劇的なダイナミクスの不足といい、4番を聴きこんだリスナーにとっては気になる点は多いはずである。
 一方でレーヴェの改編版による演奏という点に関してはあまり気にならないかも知れない。それくらいフルトヴェングラーの演奏が「独特」であり後者の方に大方の関心が向かうからかも知れないが・・。 
 

ブルックナー : 交響曲第5番 (ハース版)

  
 1951年8月19日ザルツブルク音楽祭における歴史的なライブ演奏。音源が荒いせいか、ザラザラした感触の不思議な「音楽空間」に、ウイーン・フィルとも思えない管の不安定さ、聴衆の咳がときたま入るといったお世辞にも決して良いとは言えないコンディション。録音にこだわる向きには、その点ではご留意下さい。
  
 しかし、そこを超越して、真のフルトヴェングラーを聴きたいリスナーには随喜の涙ものでしょう。ブルックナー演奏におけるいわゆるアゴーギク(テンポ、リズムの緩急の変化)の大胆すぎる適用といい、また、畳みかけるようなアッチェレランド(テンポの上げ方)といい、他では決して聴けない独自のブルックナーの世界の構築です。1回限りのライブ感が、演奏の先鋭性をより強くしています。そして時間の経過とともに音楽の深部にどんどん引き込まれていくような非常な緊張感があります。これは神憑りの演奏とでも表現すべきものです。

ブルックナー:交響曲第6番

  
 なによりも、この盤の面白さは<1>ブルックナー&ヴォルフ、 <2>フルトヴェングラー&シュワルツコップ、 <3>フルトヴェングラーの指揮&ピアノ伴奏の<3つ>のカップリングの妙にあります。   
 まず ブルックナーの6番ですが、1943年の演奏で第1楽章は残念ながら欠落しています(ご注意あれ!)。また、フルトヴェングラーがピアノ伴奏(タッチのミスなどは無視しましょう)のヴォルフの歌曲集は、10年をへた1953年のライブですが、シュワルツコップは別に決定版のヴォルフの歌曲集を録音しています。
 にもかかわらず、小憎らしい編集です。シュワルツコップはフルトヴェングラーを深く尊敬しており、しかも、彼女は当代随一のヴォルフ歌いでした。このカップリングは歴史的な意義が大きいと思いますし、6番のアダージョを聴いたあと、この二人の深いヴォルフの演奏に飛んで聴くのもなかなかの楽しみです。また、ヴォルフを聴きながら、ブルックナーとの関係に思いを馳せるのも一興でしょう。
 

  ブルックナー:交響曲第7番[原典版] 

  ~ フルトヴェングラー(ウィルヘルム) (指揮) ,ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

 1949年10月18日、ベルリン・フィルを振ってのダーレム、ゲマインデハウスでの録音。音質はフルトヴェングラーの他のブルックナー盤よりは良好で透明度のある響きだが、今日からみれば割り引いて考えざるをえないだろう。
 
 演奏は秀抜。ブルックナー7番は第1楽章に頂点があり、第2楽章の有名なアダージョのあと、第3楽章は一転、躍動感にあふれ、終楽章はブルックナーの他の交響曲のフィナーレに比べて軽量、快活そしてなにより短い。フルトヴェングラーはこの特質を見事に描いてみせる。 
 第1楽章終結の再現部からコーダへいたる盛り上げ方は、裂帛の迫力で本楽章だけで完結感・充足感が強い。続くアダージョも独壇場、その「沈潜」ぶりはいかにもフルトヴェングラーらしい深い味わいを湛えている。第3楽章はワーグナー/ワルキューレの騎行を連想させる振幅の取り方が特徴的でスケールの大きな構えである。第4楽章は、速度を早め軽快に締めくくる。全般に自信に満ちた堂々とした解釈であり、1950年代前半、他の指揮者(そしてリスナー)へ「これぞ規準盤」といった影響を与えたものと言えよう。
 

  にもかかわらず、本盤はブルックナー・ファンにとっては傾聴に値すると思う。それは第2楽章アンダンテを中心に各楽章の弦のピアニッシモの諦観的な響きにある。特に第2楽章18分28秒の非常に遅いテンポのなかに籠められているのは、転調をしても基本的にその印象が変わらない深く、名状しがたい諦観であると思う。しかもそれはウイーン・フィルのこよなく美しい響きとともにある。ここに表出されている諦観が作曲者のものなのか、指揮者の時の感興か、双方かはリスナーの受け止め方如何であろうが。

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